2011年6月20日月曜日

場を良くするには

建築をいくら勉強したとしても、
まちを建築の力で良くしていこうといった大志を抱いても、
土地を持つ事業者の側がビジョンを持っていなければ良い環境なんか出来やしない。

良いまち、悪いまちの差はそこから生まれる。

空間的視点がすべて正しいとは思わない。
しかし土地を資産としての価値しか見ていない不動産業界と、現在の仕組みを作り出した政府の体制が今後も変わらないと思うと落胆してしまう。

コミュニティ

地域コミュティ論が熱を帯びている。
日本では経済成長とともに物事の考え方が「共」が「個」がシフトしていき、現在は無縁社会とまで言われる世の中になった。東日本大震災を受け、これまで信じて頼ってきたシステムに限界があると知った今、これまで軽視してきた地域の視点、人とのつながりの重要性を今一度見直す契機となっている。

その一方で建築家がコミュニティを語る事に否定的な意見もある。
「つながり」という実体のないデザインは、建築というハード面のデザインを背負う側として踏み込む分野ではないという考えなのだろう。
たしかに人間の性善を根底にしたコミュニティとは本来脆くて弱いソフトであり、牧歌的な響きの言葉とともに語られるビジョンは完全に信頼できるものではない。ましてやコミュニティとは自発的につくられるものであって、第三者がつくって提供するものでは決して無い。
昨今のコミュニティ礼賛ともいうべき風潮にデザインが傾きすぎる事には警戒して注視していくべきである。

ただ、コミュニティを消し去った大きな要因である資本主義経済に突入したことで、戦後の物質的な不足はとっくの昔に解消され、現在ではハード(建築)は新築至上主義と相まって乱立して飽和状態となっている。私たちがこれから目指すべき社会は、無駄なものはつくらずに今ある空間的な資源を利用しながら街をアップデートしていくストック型社会である。
それゆえに建築家は建物をつくるだけでは仕事にならない現状がいつか来るだろう。(既に来ているかもしれない)

無縁・多様化・少子高齢化の現在において、建築家は何を対象にして頭を動かし、何を世の中に生み出すべきなのか。
建築家の役割が問われている。

2011年3月10日木曜日

賃貸住宅その4

4)シェアハウス2

個人が街で1人ぼっちになってしまう賃貸住宅がこれまで大量につくられてきた。
こういった窮屈な住居がはびこる状況が、住人と地域の関わりを薄くしている原因のひとつだと思う。
その結果、前回書いたような「精神健康状態に問題あり」とされる人を生んでいるとしたら早急に住まいのかたちを考え直さなければならない。

他者と生活を共有する住まいであるシェアハウスは、この問題を解決するひとつの回答だと思う。
一人ではなく、閉塞感のない暮らしができるからだ。

ただ、住人が自分の家族でない以上、どこまでもべたべたと一緒に暮らせるわけではない。
やはりお互いにある程度の距離をとる必要があるだろう。

この場合、気遣いや思いやりまたはルールといったことがこの他者との共同生活を成立させるうえでとても重要である。
先日テレビ番組でシェアハウスの暮らしを紹介していて、そこに暮らす住人たちは同じ家に暮らす他の住人に自分の部屋のドアをノックされるのを嫌っていた。
複数で暮らしていると自分の部屋にいるときは完全にひとりになりたいらしく、ドアをノックされてひとりの時間を壊されたくないということを語っていた。
それゆえ用事があるときはノックせずに携帯にメールを送っており、そのやり取りの様子はとても繊細で生々しかった。

上記に限らずルールの存在はたしかに住人同士の衝突を防ぐ意味で必要である。
ただ、住人同士で距離を保つにはやはり空間の役割が大きいだろう。

距離が近すぎては衝突してしまうし、遠すぎても関係が疎遠になってしまう。
ほどよい距離感であれば、住人同士は付かず離れずの良い関係でいられる。

そのほどよい距離感を保つための場所がリビングや中庭などの中間領域(共有部分)である。
そこは住人同士が集まる一体感と、個人がひとりでいられる開放感をつくる。
つまり中間領域は人と集うための「場」であり、離れるための「間」でもあるのだ。

こういった人と人の程よい距離感がシェアハウスだけでなく、近所の路地や公園というように広がっていき、地域の人たちがお互いに離れながらもつながっていると感じる事が出来たら、その街にはおそらく幸せな空気が流れることだろう。

今、日本の住まいは病んでいる。
どうしようもなく窮屈で閉鎖的で人を孤独にさせている。
人の暮らしを豊かにさせるのは金や利便性だけではない。
もちろんそれらよりコミュニティやゆっくりする時間の方が大切だなどと綺麗ごとをいう訳ではない。
すこし今の日本は前者に偏りすぎていて、バランスを取り戻す必要があるのだ。
そしてそこに気付き始めた人が多くいる世の中になってきていると思う。

その良い流れに乗り、今後シェアハウスのような住まいが徐々に増えていけば、他者との関わりを取り戻していく事が出来たら、主流にならなくとも日本の生活の質は今より断然良くなり、きっと本当の意味で生活の豊かさを得るだろう。

賃貸住宅 その3

3)シェアハウス

人は1人では生きていけない、と良く耳にする言葉がある。
これは前回の調査結果で裏付けできるかもしれない。(精神が病んでも生きてはいけると曲がったことを言う人もいると思うが)
やはり別の誰かと共存しながら生活することは人が人である以上とても重要なのだ。

さて、日本は賃貸住宅にくらべて持ち家に住む割合が多い。
この持ち家の多くは親と子もしくは老夫婦といった血縁で結ばれた最も近しい関係の人たちが暮らしていることだろう。

こういった日本の家はSOHOのような自宅でもあり仕事場でもある建物じゃない限り、なかなか外部の人が出入りすることはないように思う。
ヨーロッパでは集合住宅の賃貸が当たり前で、土地・建物を他者と共有するこの住まいと比べると日本の持ち家は共有という余地がなく、とても閉鎖的だといえる。

日本にも集合住宅はあるが、こういった他者と住まいを共有しないという考えが根底にあるから、同じ建物内にいても自分の部屋から外に出たらそこは「外」と思ってしまう。だから欧米に比べて他の居住者とコミュニケーションが少ないのではないだろうか。

それはさておき、一方で最近「シェアハウス」という家族でもなく恋人でもない「他者」と一緒に暮らす住まいの形が増えてきている。
一人暮らしでは使えない広いリビング・キッチンなどの設備などが共同ながらも使え、他の居住者との交流が魅力なようだ。

そもそも持ち家という住まいは戦後の持ち家政策により増加したもので、
もともとは借家が多く、江戸時代にさかのぼれば長屋と呼ばれる町人が住む共同住居にたくさんの人が暮らしていた。
またこの長屋の居住者は「家族」ではなく、町人「個人」の集まりだった。

学者の広井良典は自身の著書で、
「農村型コミュニティ」(家族や会社などの共同体)
「都市型コミュニティ」(独立した個人と個人のつながり)
という2つのキーワードをあげ、これからの時代はこの両者のバランスが大事だという。

これのコミュニティの分類を日本の住まいに当てはめると、
戦後の持ち家とは閉鎖的な「農村型」の住まいであり、
江戸の長屋は個人と個人がつながる「都市型」の住まいである。

さらに長屋は結果として一つ屋根の下で生活を共有するため「農村型」の住居でもあり、いうならば広井のいう両者のバランスを保った「ハイブリッド型」の住まいだったと言える。

一方シェアハウスはというと、これもまた血縁の関係ない「個人」が集まって共に生活をする、まさに長屋を先祖帰りさせたような「ハイブリッド型」の住まいなのである。

果たして今後、このような住まいの選択肢が増えていくのだろうか。

2011年3月8日火曜日

賃貸住宅 その2

2)地域コミュニティの重要性

東京の賃貸居住者(単身者)の2人に1人は「精神的健康状態に問題あり」という調査結果がある。


「精神的健康状態に問題あり」とされた賃貸居住者(単身者)の割合
東京:54% ニューヨーク:15% ロンドン:21% パリ:26%


これは賃貸住宅生活実態調査で一番衝撃を受けた調査結果だ。
海外の都市と比べても東京が圧倒的に多く、東京の異常さがはっきりとわかるだろう。

なぜ東京と欧米にこのような差が出来るのかというと、居住者と地域コミュニティの関係の有無が大きな影響を与えているようである。
欧米に比べ、東京の居住者は(東京に限らないかもしれないが)地域との関係が希薄であり、地域住民としてのアイデンティティ、自覚をほとんど感じていないのだ。

住まい探しの際に重要視される条件を比べると欧米と日本の地域への関心の違いがはっきりとわかる。
欧米が「個性的な部屋かどうか」「魅力的な地域環境かどうか」という生活を基準とした視点で住まい探しをするのに対し、
日本は「会社に通いやすいかどうか」「家賃がいくらか」といった利便性を基準とした視点で探すのである。

事実、東京に住む人のうち「居住地域内、集合住宅内にいる親しい友人の数が0人」という人の割合は、
居住地域内だと54%、集合住宅内だと78%という嘆きたくなる数値だ。
それに対してニューヨークはそれぞれ15%、29%という結果で、東京の半分にも満たない。
言い換えればニューヨークに住む人の多くは住まいの近くに親しい友人を持っているという事である。

この「居住地域内、集合住宅内にいる親しい友人の数」は先ほどの「精神的健康状態に問題あり」とされた割合にかなり関係している。

「集合住宅内や居住地域内にいる親しい友人の数」が1人でもいると「精神的健康状態に問題あり」とされた割合は減少する傾向にあり、

また親しい人数が1人よりも2人、3人と多くなるとより減少する傾向にあるようである。


話し相手となる友人が近くにいれば精神的に安心できる、ということは誰でも簡単に想像できるだろう。

無縁社会という言葉を最近良く聞くが、日本人は欧米人に比べて住まいや地域環境への関心・関係がかなり薄いこと、
そして利便性ばかり重視して自ら閉塞された住まい環境を選んでしまうと、自ら身を滅ぼしてしまうこともわかった。

一刻も早くこの無縁社会をつくる住まい環境・住人の意識を何とか改善し、人が心地よく暮らせる地域コミュニティをつくっていく努力を今後していかなければならないと思う。


つづく

2011年2月22日火曜日

賃貸住宅 その1

昨年の秋に行われた hakai という、これからの住宅を考えるシンポジウムで配布された、
賃貸住宅生活実態調査(発行:リクルート住宅総研)というものを読み終えました。
そこに書かれたデータや意見を参照しながら、要点と自分の感想を書いて頭の中を整理したいと思います。

1)日本の賃貸住宅は狭くて家賃が高い
全国の住宅で誘導居住面積水準を満たす割合は、持ち家が72%に対し、賃貸住宅は28%しかない。
また東京と世界の賃貸住宅の「平均面積/平均家賃」を比較してみると、
ロンドン 84.4㎡/11.8万円
パリ   71.4㎡/8.7万円
東京   42.3㎡/8.8万円
となり、東京の狭さが異常なほど目立つ。
家賃もパリとほぼ同じ値段なのにその60%ほどの面積しかない。
ロンドンは一見すると家賃が高いが、1㎡当たりの値段は1290円で、東京の2527円の半額という結果である。
(家賃の高いロンドンではシェア居住が浸透している)

この比較だけでも日本の賃貸住宅市場は質が低く、低レベルな住宅ではびこっている現状が明らかとなった。
もちろん天井高や採光・通風の良い窓の有無で生活の質はがらっと変わるので、面積が大きいから良いという訳ではない。
しかし狭いうえに高額な家賃の賃貸住宅に誰が住みたいと思うのだろうか。
パリでは19㎡未満の部屋は人の居住に適さないということで住宅として貸す事を禁止されているが、
東京では単身者用の最低居住面積(25㎡)を余裕で下回る20㎡未満に、なんと28%もの人が生活をしているのだ。

明らかに東京は海外の都市より賃貸住宅の質、すなわち生活の質が格段に劣るのである。

つづく

2011年2月9日水曜日

倉俣史朗

昨日、2121に行って「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」を観てきました。

エットレ ソットサスの死後に制作された「カチナ」があったものの、作品量が多くないので2人の小規模の回顧展という感じで、目新しさはありません。

しかし倉俣作品から伝わる儚さにどんどん惹かれました。
不思議な事にそれらの素材がアクリルやエキスパンドメタルなどという工業製品だということです。
儚さというと、桜の花びらのような有機的で永遠でないものがイメージとしてありますが、倉俣作品にはそんな要素は一つもありませんでした。
朽ちていくイメージが無いのに儚さを感じてしまうなんて本当に不思議です。

なんとなく考えを書くと、倉俣史朗は瞬間を形にしていると思うんです。

Miss Blancheは高純度で透明なアクリルの中にバラが宙に舞う瞬間を、
How High The Moonはエキスパンドメタルで形づくることでその場に漂う空気を瞬間的に椅子の形に閉じ込めています。
 今回は出展されていなかったですが、私が好きなオバQも瞬間を形にした例としてあげられます。


このように永遠とは対極にある「瞬間」という時間を形にすることで儚くも美しい姿が出来たのだと思います。
今回の展示空間はゆったりとしており、作品のまわりにふわっとした空気が漂っていたことも 作品の美しさ=儚さ を強める大きな要素だったと思います。

そしてこれは展覧会で一番気に入ったTwilight Timeという作品です。

この見た目の軽さ&美しさにビックリしました。
スカスカな脚にガラス天板の組み合わせは素晴らしいの一言。
そして仙台メディアテークの模型に似てますね。笑
この脚を見て、How High The Moonもそうですけど石上純也のビエンナーレの空気のボリュームを思い出しました。
ちなみにこの天板はガラスが三段コンタ状に重なっています。
こういったちいさな美意識の積み重ねを大事にしていきたいものです。

最後に当日いろいろ倉俣作品を解説してくださった2121のスタッフである大学時代の先輩に感謝します。