2011年3月10日木曜日

賃貸住宅その4

4)シェアハウス2

個人が街で1人ぼっちになってしまう賃貸住宅がこれまで大量につくられてきた。
こういった窮屈な住居がはびこる状況が、住人と地域の関わりを薄くしている原因のひとつだと思う。
その結果、前回書いたような「精神健康状態に問題あり」とされる人を生んでいるとしたら早急に住まいのかたちを考え直さなければならない。

他者と生活を共有する住まいであるシェアハウスは、この問題を解決するひとつの回答だと思う。
一人ではなく、閉塞感のない暮らしができるからだ。

ただ、住人が自分の家族でない以上、どこまでもべたべたと一緒に暮らせるわけではない。
やはりお互いにある程度の距離をとる必要があるだろう。

この場合、気遣いや思いやりまたはルールといったことがこの他者との共同生活を成立させるうえでとても重要である。
先日テレビ番組でシェアハウスの暮らしを紹介していて、そこに暮らす住人たちは同じ家に暮らす他の住人に自分の部屋のドアをノックされるのを嫌っていた。
複数で暮らしていると自分の部屋にいるときは完全にひとりになりたいらしく、ドアをノックされてひとりの時間を壊されたくないということを語っていた。
それゆえ用事があるときはノックせずに携帯にメールを送っており、そのやり取りの様子はとても繊細で生々しかった。

上記に限らずルールの存在はたしかに住人同士の衝突を防ぐ意味で必要である。
ただ、住人同士で距離を保つにはやはり空間の役割が大きいだろう。

距離が近すぎては衝突してしまうし、遠すぎても関係が疎遠になってしまう。
ほどよい距離感であれば、住人同士は付かず離れずの良い関係でいられる。

そのほどよい距離感を保つための場所がリビングや中庭などの中間領域(共有部分)である。
そこは住人同士が集まる一体感と、個人がひとりでいられる開放感をつくる。
つまり中間領域は人と集うための「場」であり、離れるための「間」でもあるのだ。

こういった人と人の程よい距離感がシェアハウスだけでなく、近所の路地や公園というように広がっていき、地域の人たちがお互いに離れながらもつながっていると感じる事が出来たら、その街にはおそらく幸せな空気が流れることだろう。

今、日本の住まいは病んでいる。
どうしようもなく窮屈で閉鎖的で人を孤独にさせている。
人の暮らしを豊かにさせるのは金や利便性だけではない。
もちろんそれらよりコミュニティやゆっくりする時間の方が大切だなどと綺麗ごとをいう訳ではない。
すこし今の日本は前者に偏りすぎていて、バランスを取り戻す必要があるのだ。
そしてそこに気付き始めた人が多くいる世の中になってきていると思う。

その良い流れに乗り、今後シェアハウスのような住まいが徐々に増えていけば、他者との関わりを取り戻していく事が出来たら、主流にならなくとも日本の生活の質は今より断然良くなり、きっと本当の意味で生活の豊かさを得るだろう。

賃貸住宅 その3

3)シェアハウス

人は1人では生きていけない、と良く耳にする言葉がある。
これは前回の調査結果で裏付けできるかもしれない。(精神が病んでも生きてはいけると曲がったことを言う人もいると思うが)
やはり別の誰かと共存しながら生活することは人が人である以上とても重要なのだ。

さて、日本は賃貸住宅にくらべて持ち家に住む割合が多い。
この持ち家の多くは親と子もしくは老夫婦といった血縁で結ばれた最も近しい関係の人たちが暮らしていることだろう。

こういった日本の家はSOHOのような自宅でもあり仕事場でもある建物じゃない限り、なかなか外部の人が出入りすることはないように思う。
ヨーロッパでは集合住宅の賃貸が当たり前で、土地・建物を他者と共有するこの住まいと比べると日本の持ち家は共有という余地がなく、とても閉鎖的だといえる。

日本にも集合住宅はあるが、こういった他者と住まいを共有しないという考えが根底にあるから、同じ建物内にいても自分の部屋から外に出たらそこは「外」と思ってしまう。だから欧米に比べて他の居住者とコミュニケーションが少ないのではないだろうか。

それはさておき、一方で最近「シェアハウス」という家族でもなく恋人でもない「他者」と一緒に暮らす住まいの形が増えてきている。
一人暮らしでは使えない広いリビング・キッチンなどの設備などが共同ながらも使え、他の居住者との交流が魅力なようだ。

そもそも持ち家という住まいは戦後の持ち家政策により増加したもので、
もともとは借家が多く、江戸時代にさかのぼれば長屋と呼ばれる町人が住む共同住居にたくさんの人が暮らしていた。
またこの長屋の居住者は「家族」ではなく、町人「個人」の集まりだった。

学者の広井良典は自身の著書で、
「農村型コミュニティ」(家族や会社などの共同体)
「都市型コミュニティ」(独立した個人と個人のつながり)
という2つのキーワードをあげ、これからの時代はこの両者のバランスが大事だという。

これのコミュニティの分類を日本の住まいに当てはめると、
戦後の持ち家とは閉鎖的な「農村型」の住まいであり、
江戸の長屋は個人と個人がつながる「都市型」の住まいである。

さらに長屋は結果として一つ屋根の下で生活を共有するため「農村型」の住居でもあり、いうならば広井のいう両者のバランスを保った「ハイブリッド型」の住まいだったと言える。

一方シェアハウスはというと、これもまた血縁の関係ない「個人」が集まって共に生活をする、まさに長屋を先祖帰りさせたような「ハイブリッド型」の住まいなのである。

果たして今後、このような住まいの選択肢が増えていくのだろうか。